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6月8日 時流の先へ 中部財界ものがたり
  • WWD 2013年6月24日

    10年かけ、グローバル化改造計画
    目指すは社員一人ひとりが“一流の商人”
    瀧昌之/社長

    激しく変化する時代にいるからこそ、社員一人ひとりの成長に向き合いたい――。
    ルーツを江戸に遡る名家、瀧定名古屋の瀧昌之・社長の経営スタイルは、戦略や組織では
    なく“人”。「人材育成は究極の長期戦略。スピード感も派手さもないが、
    非上場だからそれでもいい。10年かけてでもグローバル化に対応したい」という。
    目指すは、誰もが世界で戦える一流の商人集団だ。

    WWDシャパン(以下、WWD):国内のテキスタイル市場が縮小する中で、これまでの
    ビジネスモデルが通用しなくなっているが。


    瀧昌之・社長(以下、瀧);2001年の分社化以前も含めると、“瀧定”はずっと日本の
    服地卸のリーディングカンパニーで、国内ではビジネスのスキルも企業としても、
    それなりの評価をいただいてきた。だがアパレルの海外生産の拡大に伴って
    テキスタイル市場が縮小したため、海外に市場を求め一歩外に出てみると、
    “タキサダ何それ?”って当社のことを誰も知らないし、相手にしてもらえない。
    看板が通じない中で、「私はこういう人間で、こんなビジネスを持ってきた」
    ということから始めなければ、海外では相手にしてもらえない。
    要するにグローバルなレベルで見ると、中途半端で力が足りていなかった。

    WWD:具体的には?

    瀧:例えばリーマンショックの直後、毛織物の原料である羊毛の価格が高騰して
    当社も大混乱に陥った。中国での需要急増と投機マネーの流入が重なったからだ。
    服地や日本でのことは多少知っていても、グローバルなレベルで
    誰がどのぐらい羊毛を買い、そのせいで何が起こっているのかを全く知らなかった。
    グローバルに活動するなら、為替や羊毛価格の上下に一喜一憂するのではなく、
    直接市場に行ってみるとか、オーストラリアの牧場に直接羊毛を買い付けるくらいの才覚が必要だ。

    WWD:90年代には中国生産に乗り出すなど、グローバルに活動してきたが?

    瀧:当時の中国は発展途上だったので日本語での対応や小ロット・短納期など、
    我々の要望を受け入れてくれるなど、仕事はだいぶ楽をしてきた。
    一方で今のASEANは欧米企業が先行して進出しているので、仕事のやり方も異なり、
    今さら日本企業の言うことなんてほとんど聞いてくれない。
    中国担当だった技術者をASEANの工場に放り込んでいるが、
    慣れ親しんだ中国企業とのギャップにショックを受け、ガラガラと自信が崩れ去っている最中だ。
    しかし、だからこそチャンス。変化が大きい時こそ、人は大きく成長できる。

    WWD:国内での人材育成のための施策は?

    瀧:たとえばテキスタイル事業だと2年前から課長を工場に
    一ヵ月間泊り込ませる研修をスタートした。当社の課長となればベテランだし、
    工場のことなど知っていて当然という思い込みがあったが、その自信をあえて崩したかった。
    個人個人のレベルアップのため、あえて変化の中に放り込む必要があった。

    WWD:その成果は?

    瀧:課別の独立採算制という組織は変わっていないが、中身は大きく変わった。
    以前の婦人服地卸はマーケットが大きく、トレンドの移り変わりが激しいから、
    ターゲットが定まらず、どうしてもビジネスの仕方が大ざっぱになりがちだった。
    しかし数年前からは、お取引先と深いつながりを持てるようになり、
    パートナーとして信頼を得つつある。

    WWD:海外での販売は?

    瀧:中国では10年前に現地法人を設立し、現地のセールスマン/ウーマンが育ち始めた。
    我々のテキスタイル卸という役割は、ブランドではなく「機能」なので、
    営業は商慣習や言語に精通した現地の人材を育てなければならない。
    駐在員の仕事は彼らをマネジメントすること。
    それでも現地での販売網を確立させるにはあと10年はかかるだろう。
    一方、ASEANは生産や物流業務を立ち上げたという段階。
    中国でも営業に行き着くまでに10年かかったので、
    営業機能までを確立するにはあと20年はかかる。

    WWD:成長のスピードが遅いようにも聞こえるが。

    瀧:1人の天才だけを育てるわけではないので、成長スピードに限界がある。
    当然スケール感にも欠けるし、目に見えるような劇的な変化もない。
    だが組織や戦略に人をはめるのではなく、どんな人間かを見極めて、
    その人に合う組織を作ってあげる。非上場だからできることかもしれないが、
    それが私の役割だと思っている。経営者としての醍醐味は、半年に1度の全社員との面談。
    半年前から劇的に成長している社員も少なくないが、それを見るのが一番うれしい。
    2000年に三菱商事から呼ばれ、何もわからない私がここまでやってこられたのは社員のおかげ。
    当社の特徴である課別の独立採算制も高度成長期には大変効果的だったが、
    市場が成熟している今は必ずしもフィットしていないことは理解している。
    しかし、チームが小さいからこそ責任が大きくなり、成長の機会が多くなる。
    当社は特に、“個”が立っている会社。それを受け継ぎながら、さらに進化させるのが私の役割だ。

     

  • 繊研新聞 2013年6月8日

    時流の先へ 中部財界ものがたり
    瀧定 先見性と問屋魂・繁栄支えた3兄弟

     若手社員が軍需工場に駆り出され、経営首脳は相次ぎ急逝―。
    一九四一(昭和十六)年十二月に太平洋戦争が始まると、名古屋財界「近在派」の
    呉服問屋、瀧定商店(現瀧定名古屋)を危機が襲う。窮地を救ったのは、経営の
    バトンをつないだ三兄弟の奮闘だった。  会長だった父と社長だった長兄を失った
    瀧潤次郎は四三年九月、三十五歳で社長となった。

    だが陸軍に徴兵中で経営の前線には立てない。終戦から半月後の四五年八月末、ようやく
    今の名古屋市中区錦にある本店に戻る。国内外から従業員も引揚げてくる。
    ただ、繊維製品の多くは販売を制限されたままだった。
    「みんなを食わせるため、何でもやる」。潤次郎は腹をくくる。
     「鍋か釜は要りませんか」。戦後初の新入社員の一人で元専務の池崎武(八四)
    =名古屋市千種区在住=は四八年、軍需払い下げの金物を詰め込んだリュックサックを
    背負い、列車を乗り継いで九州の小売店を行脚した。  
    やがて繊維製品が自由に売れるようになり、潤次郎ら経営陣は大方針を立てる。
    「和装から洋装へ 地方の卸から全国の元卸へ」六〇年前後、紳士服地に力を入れだす。
    毛織物を仕入れようと、池崎は愛知県の尾州産地を回った。

    最初は「呉服屋にやれるわけがない」と相手にされない。小売店と売れ筋を探り、
    産地の機屋に提案していく。池崎は「ものづくりを企画する能力を持たんと生き残れんかった」
    と振り返る。

     潤次郎はいたずらに規模を追わなかった。「一歩一歩の踏み固め、一日一日の積み上げ、
    それがやはり根本だ」と語っている。

    七〇年まで二十七年間社長を務めた潤次郎の後を、四歳年下の弟隆朗が継ぐ。隆朗は不振が続いた
    大阪支店を本店並みの業績に立て直し、社長になっても大阪から指揮を執った。「市場のリスクは負え。
    だが、もうけろ。商社を目指しても一流にはなれない」。大商社を意識して規模だけを追わず、
    あえてリスクとなる在庫も持つ。それが問屋の機能と考えた。

     新たな仕組みもつくった。品目単位の営業課が仕入れから販売まで独立採算で担う。
    責任の押し付け合いがなくなり、課と課が成績を競った。「無数の失敗をまき散らしつつ、
    大失敗はあり得ない経営」と、瀧定百三十年史にある。

     「事実を素直に認め、自分の考えを実態に合わせないと、ええ知恵は生まれんぞ」。
    元常務で大阪府大阪狭山市に住む秋田幸彦(八〇)は、隆朗と話すたび理詰めで諭された。
     末弟の季夫は八〇年に隆朗の後を継ぎ、会長兼社長となった後の二〇〇一年に会社を分割する。
    分社した瀧定大阪の経営は隆朗の子と孫に委ねられた。季夫の長男で瀧定名古屋社長の
    昌之(五一)は「世代が進んで一体感が薄れることを危ぶみ、兄弟三人が存命のうちに決断した」
    とみる。

     質実剛健の潤次郎、リスク挑戦の隆朗、和の精神の季夫。三人の兄弟は漆のように社風を塗り重ね
    てきた。仕入れ先がアジア各地に広がっても、昌之は問屋魂を継ぐ。
    「一人一人が一流の商人でありたい」

     土着派、近在派、外様派からなる名古屋財界三派は近代産業の興隆を支え、戦中戦後の荒波を
    乗り切ってきた。時に競い、時に手を取って。
    日本の成長戦略が問われる今、三派の軌跡は輝きを増す。(文中敬称略)

     

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